小さな思い出と「生きるということ・・・」
先月は自分の会社の社名についての思いを書きましたが、小さい頃から勉強嫌いで、飽きっぽく、何の取柄のない私が、どうにかこの年まで生きてこられてのか思い返してみたいと思います。
小学生の低学年の頃、当時の通信簿は「たいへんよくできました、よくできました、ふつう、すこしわるい、たいへんわるい」の5段階だったと思います。その中でいつも評価は「ふつう」のオンパレード。体も小さく、ランドセルの方が大きくランドセルが歩いているとよく言われたものでした。朝礼で並ぶときはこれもいつも一番前が定位置、勿論、運動会の徒競走も後ろから数えた方が早いぐらい遅い。だけど学校へ行き、皆と遊ぶのが大好きで、あの頃、放課後に夢中になって遊んだのが「どろじゅん(泥棒と巡査)」と言う追いかけっこ、大きな声で駆けずり回って遊んでいると、「下校時間になりました。早く帰りましょう」と非情な校内放送が流れてくるのです。そして流れてくるのがミュージックチャイム、ドボルザークの新世界・家路「遠き山に陽が落ちて~」、あれを聞くと今でもメー一杯遊んだ記憶が懐かしく鮮明に蘇って来ます。仕方なく帰ることになるのですが、明日が早く来ないか、遊びのことだけがいつも離れない子供でした。だけど何故か学芸会のときは主役をやれということになるのです。1年のときは「ピノキオ」、2年のときは「北風さん、南風さん」の南風さん、勉強嫌いの私がそのときだけは台詞を覚えようと必死になるのですが、覚えてはすぐに忘れる生まれつきの鈍い頭、学芸会当日は、親も楽しみにきていますので、講堂の舞台の上で緊張して演じていたのを覚えています。
私にとって転機になったのが4年のときの三戸先生、大柄な男性の先生で、「いわま、いわま」と可愛がってくださり、単純な私はそれから急に成績が延び始めました。その時は評価も「5、4、3、2、1」の5段階に変わっていましたが、いきなり5が沢山増えたのです。人間は認められたり、愛されるとわかるとその人のために一生懸命やるじゃないですか。その典型でした。4年のときは先生が「赤頭巾ちゃん」をやれというのですが、面倒な台詞を覚えなくてはならない、遊ぶ時間が減ってしまうと「先生、赤頭巾ちゃんは女の子です!!」というと、「おー、そうだったか、それでは狼をやれ」と一言で勝負あり、結局狼に変身となりました。その時はミュージカル風に音楽の先生が台詞を歌にしてくださって、今でも台詞がでてきます。「あーかずきん~♪、ほーら、ほーら今日はお前の好きなおばあさんの誕生日です~♪このお団子を届けておくれ~きっときっとおーよろーこびー♪」、狼の出番「いそげ♪いそげ♪そらいそげ、いそいでいかねば、間に合わない!!」
あの頃ミュージカル風というだけでとても「ハイカラな」感じがしたものです。おまけに歌詞に「お団子」が出てくるのはいかにも古ーい昭和を感じさせますよね。
私は小学校、高学年になり少しは勉強するようになったのですが、相変わらず、遊びが大好きで、5年、6年のときに可愛がってもらった斉藤先生には麻雀、ポーカーを教えてもらいました。そして、先生のお宅へ遊びに行くのが楽しみで、夏休みには数人で泊りがけで遊びに行ったものです。この先生は女性でしたが、遊びだけではなく書道の手ほどきもしてくれて、その後の私の人生のベースはこの先生の影響がかなりあったのだと思います。
私は仕事をしていく中で「遊びの乗りで仕事をしよう!!」ということがあるのですが、遊んでいるときの楽しい感覚、仕事も楽しみながらやらないと良い仕事ができないと思うのです。勿論仕事ですから、楽なことはありませんが、そんな時ほどゲーム感覚で答えを探し出していく、そんなことを自然と教えてもらったように思います。
中学へ行くと急に周りが大人に見え始め、体の小さい私はこの小さい体でできるものは無いか考えるようになりました。そのときに考えたのが軟式テニスの後衛、テニスのダブルスは当時、前衛が背が高く、後衛は背が小さくても良いといわれていました。入部したときは今の昭和天皇と美智子妃殿下のご成婚の影響もあり、7,80人の新入部員がいましたが、1年を過ぎる頃に残ったのはたった5人だけ、それだけ厳しかったのでしょう。朝のコート整理(ローラーがけ、白線引き)に始まり昼は先輩の練習中の玉拾い、放課後も玉拾い、素振り、体を鍛えるためのランニングに腹筋、そして蛙飛び、殆ど打たせてもらえませんし、勿論休日などありません。疲れてはただ寝るだけの毎日が続きました。たまに打たせてもらえる時には先輩に良いところを見せようと必死でした。そんな中で中学2年のときに区民大会で3位になったのが嬉しい思い出です。いつの間にか、体が小さくても、ひとつのことをやり続け、努力をすれば何かできると思うようになりました。ただ、中学では、一番上の兄貴が中学で1,2番を争う秀才であったので、「何でも知っているジロリンタン!!」というあだ名で呼ばれ、2番目の兄貴が三郎、そして私が四郎と呼ばれ、古い先生方からはいつも「お前の兄貴は成績が良かったけど、お前は・・・」といわれる始末です。中学3年になり、高校進学、家は親がサラリーマンの家庭で、お金に余裕があったわけではないので、当然地元の県立高校へ行かなければならない状況にありました。兄貴たち2人も同じ道を辿っていましたので、自分も行けるであろうと楽観視していたのですが、テニス三昧であまり勉強をしたという覚えがないので実は不安が一杯、だからといって勉強してもすぐに飽きてしまい、他のことをやりだす始末、だけど何故だか合格しました。行ってみますと、高校は甘くはありません。一夜漬けの勉強レベルでは成績が良くなるはずがありません。いつの間にか元の真ん中レベルに落ちて行く有様です。それでも、興味を持って勉強したときには数学で満点を取ったりしたこともありますが、まあそれはたまたまです。学年で成績順にランク付けされるのですが、CランクとBランクを行ったり来たり、それでも中学に引き続いて軟式テニスと夜は空手の世界にのめり込んで行くのです。空手も大学にかけて5年ほどやりました。空手をやり始めたのは動機が不純で、体の小さい私が喧嘩に勝つためです。家の小さな庭に巻き藁で作った突き棒を埋め込み、来る日も来る日も正拳の練習、形だけなら、5段まで覚えました。道場が無かったのでお寺の境内をかりての稽古でしたが寒い冬も道着一枚、今の年になっても、大きな病気をしたことがないのも、体の丈夫さはこの頃鍛えたことが役に立っているのかもしれません。
高校2年の頃から、悪がきになりました。あれだけテニス、空手を夢中でやっていたのに、友達の家に行って勉強してくると言いながら夜を徹して遊んだり、お酒を飲むようになりました。あの頃500円だった「サントリーレッド」、サントリー角瓶、オールドなんて、高嶺の花でした。
高校2年の或る日1時限目が終わり、二日酔いで気持ち悪くて、窓際で涼んでいたときに知り合ったのが、親友の「たくみ」、「お前何しているの?」「いや、昨日飲み過ぎて気持ち悪くて・・・」この会話から半世紀以上も経っても変わらぬ友情で結ばれるなんて、人生ってわからないものです。というよりこれが人なのかもしれません。あの良い女が何であんな男と・・・逆にあんなに良い奴が何であんな女と・・・人には理解できないところで惹かれ合ったりするのが人たる所以。たくみは今ニューヨーク、足掛け、40年近くアメリカに住んでいてもお互い「おい、たくみ!!」「なんだよ、てっちゃん」の中、ありがたいものです。
彼の薦めもあって、「文学研究会」に入り、昭和10年代、20年代の文学を中心に少しは本を読んだ時期もあります。谷崎潤一郎、佐藤春夫、堀辰雄、川端康成懐かしいものです。
30を越えた頃から、大きな仕事をする、良い仕事をする、最高の品質、秀でたサービスを作り上げたいと思うようになりました。そう思えば思うほど、一人の力では出来ないということを知るようになりました。仕事と言うものは多岐にわたり、また自分を取り巻く環境も大きく変化している中、自分の小さな枠の中で考えていたら、取り残されてしまうのは必然です。
それまでは自分のことばかり、自分に知識、技術、経験をつけるにはどうしたら良いのか、「仕事のできる奴と言われたい」そのことばかりを考えていました。学校時代をあまり勉強しなかった私が生きるために、これからは人の倍努力をしようという気になっていたのです。ただ努力をすればするほど、自分の能力の無さ、非力さを知るようになり、それをカバーするためには能力の高い人、力がある人の力を自分のために使ってもらえるようにするしかないことに気がついたのです。それには自分の周囲にいる一人一人を大事にし、まずはプライベートで信頼関係を築くことが大事で、個々の人間性、能力を認め、褒め、愛することから始めようと思いました。またこの30を過ぎた頃から部下ができ始め、その部下を自分が力がないために脱落させたくない、「岩間さんは仕事は厳しい、そして怖いけどがいつも自分を見てくれている、わかってくれている」と言われるようになろうと心に決めました。私はリーダーシップとはこの人とだったら「仕事と心中する」くらいの覚悟を持った人間関係をどれだけ作れるかにあると思っています。それには絶えず、人を見つめ、その人の人間性、仕事に対する姿勢、得手不得手を理解し、その人に合わせた課題の設定をしていかなければなりません。またそれもその人の能力を遊ばせるのではなく、絶えずプラスαの課題を如何に与えていくかにあると思っています。
人の能力を活用するのだから、自分が勉強しなくなるということではありません。自分が成長しなければ、部下たちはどうなるのでしょう。部下は上司の枠組みの中で動きますから、上司が絶えず新しいことに挑戦し、成長していなければついて来るはずもありません。小さな枠の中でしか動かない上司でしたら、様々な個性を持った部下が可哀想ですし、会社の仕事の質が上がりません。会社の質が上がらなければ、いずれはこの競争社会からの退場を余儀なくされます。はっきり言って、その会社は潰れるということになるのです。
また、人はロジカルに説明すれば動くと考えている方が多いようですが、そうではありません。それより大事なのが、お互いの人間関係、コミュニケーションができているかです。上司と部下がお互いを理解し合い、お互いを認め合って、目的や情報を共有することがまず大切で、その上で仕事に入る、勿論その時は「ロジカル」であることが求められますが、部下がやりたくない仕事でも「この人が言うのならやるしかない、頑張るしかない」と思ってもらえるような人になること、これが私自身が気をつけてきたことだと思います。また仕事は経験に裏打ちされた「判断」が重要になります。上司が成長し続けなければならないのは、世の中全般を見て、自分たちの会社の立つ位置が何処に有るのか、どの道を歩むべきなのか知るためでもあります。これが経験に裏打ちされた勘になるのです。そして正しいと思う方向へ部下を導いていかなければなりません。この時に間違えてはならないのが「正しいやり方は無い」ということです。よく具体的に全てを指示し、方法までこのようにしろという人がいますが、これは間違いです。どんなことでも計画通りに進むことはないし、やり方は時代に応じてどんどん変わっていきますので、部下がいたら、部下の人数分だけのやり方があるのです。部下を育成しようと思ったら正しい道を示し、その歩み方は自分で考えさせ、道を外れそうになったときだけアドバイスをすれば良いのです。「自ら、学び、考え、行動する人間集団」を作り上げる。このことにだけ気をつけて、この30年間、この会社人生を生きてきたように思うのです。
2015年5月22日